tom110915117’s blog

思うことを綴っています。

アイデンティティとは

アイデンティティとは

 ボクが今回このブログを書こうと思った訳は金沢美術工芸大学に入って高校のときより沢山作品を発表するようになって今一度「自分とは一体何者であり何なのだ?」ということを考えてみたかったからである。生い立ちから説明すると、ボクの父は某有名ゲーム会社の企画を担当しており、母は家具の配置などを提案するインテリアコーディネーターである。だから生まれたときから絵という物に両親が理解を持ってくれたし、自分もいつか両親みたいに絵が上手になりたいと考えていた。しかし、現実はそう甘くなく現在に至るまでに沢山の自分より絵が上手い人を見てきたしその度に嫉妬と自分の実力のなさで気が狂いそうになった。

自分のコンプレックス

 話は変わるが自分の執念深い性格はきっと声のコンプレックスからだろうと今になって思う。人とは違い、生まれた時の呼吸器の病気の影響で声がガラガラで良いときは「ハスキーだね。」悪い時は「何言ってるかわかんねぇ。」と言われた。後者のほうを言われたときにはショックで小学校低学年のときなんかは一時自殺まで考えたことがある。そしてもう一つコンプレックスがある。それは人より仕草や容姿が少し女の子っぽいところ(昔はもっと)である。この場において断言しておくがボクは同性愛者ではないし、今になっては武器だと思っている。それでも「ナメクジ女」とか言われたときはすごく傷ついたし、この時もまた自殺という二文字が頭をよぎった。言った本人たちは今何も覚えてないと思うが言われた方からすると一生この言葉が脳裏に貼りついてるし剥がそうとしても剥がせない心のしこりになっている。でも、こういう経験が少なからずあったからこそ自分とは一体どういう人なのかということ俯瞰して見れてるし、生温い人生じゃなくて良かったなと感じている。まとめにオイ、当時おれのこといじめてた奴ら次あったらその瞬間に顔面グーで殴るからな覚えてろよ。

美術しかない

 コンプレックスの話はこの辺にしておいて今から何故、美術系の高校に行き美術系の大学にいったのかということを詳しく説明していく。冒頭でも少し触れたようにボクは父がゲーム会社勤めなので夜な夜な父が絵を描いたり、パソコンを触って何か作業しているのをずっと見てきた。家に帰っくるのはすごく遅くて帰ってきても仕事をしているような人だった。本人談では「最高寝ないで4回夜を明かしたことがある。4徹目はトイレに座っただけで寝てしまう。」と言っていた。それだけ大変な仕事なのにも関わらず当時のボクはとてもカッコいいと思っていた。なぜなら父の時おり描く絵がとても素敵だったからだ。メモの切れ端やメッセージカードににサラりと描く静物画やデッサンがとてもすきだった。いつか自分もこうなりたいと漠然と考えていた。父がいつも口にしていた「人の作品は笑うな。」はすごい数の絵を描いてきた人しか言えない言葉だ。その一言だけで芸術の多様性、または多岐性を認めることができる。

 ボクは沢山の習い事をさせてもらってきた。習字にサッカー、野球、乗馬、ダンス、塾にピアノその他にも多々ある。しかしどれをとっても長くは続かず、結局はやめてしまう。理由は性格的に飽き性であるということもあるがそれ以上に本能的に絵が描きたくてウズウズしてしまい集中できない、からだ。中学が終わる頃くらいにやっぱり自分は芸術に進みたいそれ以外で生きていける自信がないと思った。高校は大阪市立工芸高校というところなのだが進学しようと思ったわけは大阪に公立の美術系高校が2つしかなく港南造形高校には絶対に行けなかったからだ。なぜ港南造形に行けないのかその理由は父の出身校だからだ。父はたまに、港南造形に非常勤講師という形で赴いているため学内で父とパッタリ会うところを想像してしまったら気が引けるのだ。だから大阪市立工芸高校のビジュアルデザイン科を受験しそしてめでたく合格した。高校時代は振り返ってみると今までで一番多い恩師に出会えた。美術を担当してくれた東京藝大出身のT先生や担任のK先生や画塾のH先生など、ただ技術を教えてくれるだけではなくもっと深いところを教えてくれたことに感謝してもしきれない。これ以上に充実した高校生活があってもいいのか疑問に思うくらい楽しかった。そしてボクは推薦をもらうことができ一般受験ではなく学内推薦という形で金沢美術工芸大学に進学することができた。本当に合格できるとは受けるまで思っていなかったし、それまで東京藝大一筋でわざわざ、すいどーばたにまで夏休みとか通ってたぐらいだったのでまさか金沢に行くことになるとは夢にも思っていなかった。しかもビジュアルデザインではなく工芸科。何でかと言うと、高校三年間でデザインを「やり切った」と思うようになってしまい、デザインを学んだ上で自分が何が出来るかと考えていくとやっぱりデザインだけ学んでいては世の中に発信していくのには弱すぎると考えたからだ。デザインはあくまでコンテンツを発信するための手段を学ぶのであって実際のモノは自分の手では作ることが出来ない。それだけで終わるのが嫌だったから工芸科に来た。そして普段はバカすぎるけど同じ強い制作意欲に湧く人たちに沢山出会えて本当にこの大学に来て良かったと思った。

最後に

ここまで自分語りに付き合って読んでくれた方ありがとうございます。Twitterに書くにはあまりにも長すぎるのでこのような形式にさせて頂きました。他にも書きたいことが山ほどあるのですが一旦ここでペンを置かせてもらいます。また何か思いついたり考えたりしたらブログを更新しようと思います。この文章を読んでくれた人が今後自分の作品を見てくれたときに「そういえばこの人ってこういう人生を歩んでいたからこういう作品を作ってるんだ」と思ってくれたら幸いです。それでは皆様、、、、

さようならば、また逢う日まで!!!